「orange our flower」
水曜日の放課後は、幼馴染みと音楽室へ。
小学生の頃。水曜日の放課後に音楽室から聞こえてくる楽しそうな音が気になって、ドアの隙間からよく覗いてた。高学年のお兄さんお姉さんたちが、見たこともないぴかぴかの楽器を手に取って、どこかで聞いたアニメの曲を奏でてたっけ。今思い返せば、特に隠れる必要なんてなかったんだろうけど。何となく、こっそり耳を澄ましてた。
一人で行くのは心細かったから、必ず幼馴染みと一緒に行った。彼はいやいやながらも、最後にはやっぱり、私の希望を叶えてくれた。
毎週水曜日は、幼馴染みと音楽室へ。それが私――外之内礼の、かつての日課だった。
私がトランペットを初めて吹いたのは、小学四年生の春のこと。
私とハルちゃん――さっきから言ってる幼馴染みの男の子のことだ――が通っていた小学校では、四年生になると何らかのクラブに入ることができる。強制ではなかったが、ほとんどの子がクラブに入っていた。
水曜日の帰りの会。その時に配られたクラブ一覧のプリント。それを手に教室のあちらこちらで、楽しそうに会話が繰り広げられていた。
さてそんな中、私はというと。
配られたプリントにろくに目も通さず、一目散に音楽室へと向かっていた。本当はハルちゃんも連れていきたかったが、
「ぼく、がくふが読めないから……」
と、やんわり断られてしまった。聴くのはいいが、演奏するとなると話は別のようだ。無理強いするわけにもいかないので、今日は一人で音楽室へ。
いつもの時間。いつもの廊下。いつもの音色。
音楽室の引き戸を、がらりと開ける。
「音楽クラブへようこそー!」
出迎えてくれたのは、たくさんの笑顔と、響きわたる楽器の音。その中で、ひときわ真っ直ぐな高音が私の耳に届いた。
「あの楽器が気になるの? せっかくだから吹いてみようか」
そう言って六年生のお姉さんが差し出してくれたのは、トランペット。初めて触れたトランペットは少しひんやりしていて、とてもきらきらしていた。
トランペットを吹き続けるうちに日々は過ぎ、いつしか私は中学三年生になっていた。
そんな春の、ある日のこと。
「礼ちゃん、音楽の先生が、音楽準備室に来てほしいって」
「うにゃ。ハルちゃん伝言ありがとー!」
お昼休みの時間、私は吹奏楽部の顧問の先生に呼び出された。
「外之内さん、こんなコンクールがあるんだけど、よかったら出てみない?」
笑顔が素敵な(でも怒ると怖い)美人顧問から手渡されたのは、一枚のチラシだった。
「全日本ジュニア管打楽器コンクール?」
「そう。独奏の大会なんだけど、これのトランペット部門にあなたを推薦したいと思って」
顧問の先生はそこで一息つくと、少し心配そうな表情を浮かべる。
「でも、時期が時期だから……。本大会は来年の三月末なんだけど、予選は二月にあって。ちょうど受験勉強の時期と重なるから、って、他の先生には反対されたのだけど……」
そういえば、私は今年受験生だ。言われるまで気が付かなかった。秋の文化祭が終わったら、部活も引退。それからは勉強に専念しなければいけなくなる。
「はぁ……」
大好きなトランペットと一旦距離を置かねばならないことを思うと憂鬱になり、自然と口からため息がこぼれた。
それを何と勘違いしたのか、先生はあわてて取り繕うかのように、
「別に強制じゃないのよ! 最終的には外之内さんが決めてくれればいいんだから。でも、私としては外之内さんの演奏を、もっといろんな人に聴いてほしいのよ」
口早に、そう言った。
「もし、そのコンクールに出ることになったら、部活引退しなくてもいいですか?」
「そうねぇ……。一応、引継ぎのこともあるから他の三年生と一緒に引退はしてもらうことになるけれど……でも、練習場所は音楽室を使っていいわよ。私も空いている時間で良ければ練習に付き合うし」
「本当ですかっ?」
コンクールに出ればトランペットを続けてもいいんだ! もちろん、勉強はそれなりにしないといけないけど。まあ、そこはハルちゃんに手伝ってもらって何とかしよう。
「そのコンクール、出ます!」
後のことなんてほとんど考えず、私は満面の笑顔でそう決めた。
「そんなわけでハルちゃん、勉強教えてー!」
「え、僕でいいの? もっと成績いい人いっぱいいるのに」
「そんな言い方してると、女の子にモテないよー?」
「……?」
きょとんとした顔のハルちゃんを、無理矢理図書室に連行する。途中、廊下ですれ違った何人かがクスクス笑っていたが気にしない。
「勉強教えるのは構わないんだけど、礼ちゃん、志望校とか決めてる?」
「うーん、よく分からないからハルちゃんと同じところでいいよ!」
「いや、そこはもうちょっと真剣に考えようよ……」
呆れつつも、ハルちゃんは鞄からパンフレットのようなものを取り出すと、私に見せてくれた。
「僕の志望校はここ。私立明葉学園高等部。僕も頑張らないと厳しいけど、礼ちゃんの今の成績だと、多分相当勉強しないときついと思う」
いきなり現実的なことを突きつけられて気が滅入るが、
「あっ! ここ制服可愛い!」
パンフレットの写真はどれも魅力的で、悪くない学校だと思った。何より、
「吹奏楽部、全国大会常連なんだね! いいなあー」
ここに行けばトランペットがもっと上手くなれるかもしれない。それだけで、志望校とする理由には充分だった。
「ハルちゃん、私ここ行くよ」
「えっ、見学もしてないのに、決めちゃっていいの?」
「うん!」
それに、ハルちゃんと同じ高校に行けば、また一緒に過ごせる。大変だろうけど部活の掛け持ちはできるみたいだから、吹奏楽部以外の部活動もやってみたい。
「ハルちゃん、高校行ったら同じ部活入ろうよ」
「吹奏楽は無理だ」
「ちがうよー。別の、ハルちゃんにもできそうな部活」
「でも、礼ちゃんみたいに特技もないし……」
「そんなこと気にしなくていいんだよー。捕らぬ狸の皮算用だよ」
「それを言うなら杞憂だ」
「……? 何が違うの?」
「……これは猛勉強が必要だ」
その日から、部活以外の時間はハルちゃん先生の補習をうけることになった。トランペットを続けるため、そしてハルちゃんと高校で同じ部活に入るために、眠気をこらえて必死についていった。
だけどそんな日も長くは続かなかった。……体力的に。
降り続く雨に紫陽花が喜ぶ梅雨の日。私は熱を出した。
「うにゃ……学校、行かなきゃ……」
「そんな高熱で行けるわけないでしょ! 最近忙しかったみたいだから、きっと疲れがたまったのよ。今日くらい、ゆっくり休みなさい。悠君には私から伝えておくから」
お母さんに心配混じりに叱られて、私はおとなしく、ベッドに潜り込んだ。
本当は学校、行きたいのに。今日は体育館貸し切って練習する日だったから。ハルちゃんも毎日勉強に付き合ってくれてたのに、私だけ体調崩しちゃうなんて。なんだか情けないし、申し訳ないなあ……。頭のくらくらと体のだるさに耐えきれずに、私の意識は、暗い底の方に沈んでいった。
何時間くらい寝ていたのだろうか。目を開けると、心配そうな表情のハルちゃんが見えた。
「ハルちゃ――」
「無理させてごめん!」
声をかけようとして、いきなり謝られた。何のことだかわからずに目を丸くしていると、
「部活で忙しいのに、その後勉強に何時間もとっちゃって……。全然休む暇なかったよね。ごめん」
「そんなこと、気にしなくていいのに」
だって勉強を教えてほしいって頼んだのは私だよ? ハルちゃんは、優しいから、何でも自分のせいだと思いこんじゃうんだよね。妙なところで責任感が強いというか……。
「ハルちゃんのせいじゃないよー。私がお布団ちゃんと掛けずに寝てたせいだと思うし」
「本当にごめん――外之内」
……え? 今、ハルちゃんは私のことを何て呼んだ?
「ハルちゃん、さっき何て言った?」
「えっと、本当にごめん、って」
「その後!」
「外之内、って言った」
熱のせいで上手く聞き取れなかったのかと思ったが、別に私の聞き間違いじゃなかった。ハルちゃんは何故か、唐突に、何の前触れもなく、私のことを、
「外之内って呼んだのは――どうして」
「いや、よく考えたら僕たちもう中学三年生だし、そろそろ名前で呼びあうのは恥ずかしいかな、って」
「どうして!」
私は体調が悪いことなんて忘れて、ベッドの上に仁王立ちした。
「私がいつ、恥ずかしいなんて言ったのっ? 名字で呼んでほしいなんて、頼んでないのに!」
顔が火照っているのが自分でもよくわかる。視界は、ゆらゆらと揺れている。ハルちゃんは心底びっくりした表情を浮かべて、何か言いたそうにしている。
「熱出したのはハルちゃんのせいじゃないから別に怒ってないけど! でも! これはさすがに怒るよ私!」
「落ち着いて外之内!」
「ほら、また名字で呼んだ!」
「わかったから! とりあえず座って礼ちゃん!」
口では「わかった」と言っているが、ハルちゃんは私が怒った理由をきっと、わかっていない。膝の上に置いた両手は、まだぷるぷると震えている。
「それで、いきなり私を名字で呼ぼうと思ったきっかけは何だったの」
さっきよりは落ち着いて問いただすと、ハルちゃんの視線が泳いだ。私がむすっとした表情で見つめ続けると、観念したように、ハルちゃんは口を開いた。
「……礼ちゃんにプリント届ける人を決めるときに、真っ先に指名されたのが僕だった。家も近いし、届けるのは別に構わないけど。でも、その時に――」
『ほら、彼女にプリント届けてやれよ、ハールーちゃん!』
『お前ら、どうせ付き合ってるんだろ?』
何ということだろう。私とハルちゃんは付き合っていると、学校中で噂になっていたらしい。そんなの、噂でしかないんだから気にしなくてもいいのに。でも変なところで責任感の強いハルちゃんは、それを申し訳なく思ってしまったようで。
「このまま変な噂が立ち続けたら礼ちゃんに迷惑がかかると思って……。だから、呼び方だけでも距離をとろうと」
「どうしてそうなるかなー、ハルちゃんは」
優しさの空回りというか何というか。私は思わず、吹き出してしまった。
「何で笑うんだよ……」
「ハルちゃん。人の噂も七十五日、っていうでしょ? 気にすることないって」
「……驚いた。礼ちゃんがことわざを間違えないなんて」
感心するところはそこですか。でも、ハルちゃんらしい。
「ハルちゃん先生に、しっかり教えてもらいましたから」
「それは良かった。……でも、やっぱりその、ハルちゃんっていうの恥ずかしいから、せめて学校では名字で呼び合わない?」
「えー」
「実は僕、下の名前が女の子っぽいの結構気にしてる」
「可愛くていいと思うけどなー」
「それが嫌なんだ……」
「私は下の名前でもいいんだけど……まあ、ハルちゃんの好きなように呼んでいいよ。でも、私はハルちゃんのことはハルちゃんって呼び続けるよ!」
「え、ちょ、やめて」
中学最後の文化祭や定期テスト、そしてコンクールの予選と、盛りだくさんなスケジュールをこなしているうちに、カレンダーは三月になっていた。
二月に行われた予選は、CDに録音した音源を送って審査してもらうものだったので、あまり緊張もしなかったし、時間もかからなかった。結果が送られてきた日、一番ドキドキしていたのはハルちゃんだったと思う。
封筒を開けると、審査員の先生からのコメントと、合格通知、本選の要項が入っていた。ほっとして顧問の先生に報告に行くと、先生はとても喜んで、お祝いに小さなブーケをくれた。うちのお店のブーケだった。きっとお母さんがアレンジしてくれたのだろう。
本選に向けてさらに練習に励もうと思ったが、
「その調子で受験も頑張ろう、外之内」
ハルちゃんにしっかりと釘を刺された。
ハルちゃんはあの日以来、私のことを名字で呼ぶようになってしまって、ちょっと寂しい。でも、変わってしまったのはそれだけで、相変わらず勉強も見てくれるし、登下校も一緒だ。もっとも、通学路での会話の内容は、古典や英語の単語クイズだったが。
受験の日は、吹奏楽のコンクールよりも緊張した。そもそも長時間じっと机に向かっていること自体、得意ではない。でもこれが終わったら思いっきりトランペットの練習ができる。そのことを考えると、何とか一日乗り越えられた。
「外之内、何とかなった?」
「うん! ハルちゃんのおかげだよー」
「良かった。僕はちょっと心配だけど……でも、受かってるといいな」
「きっと大丈夫だよ。勉強教えてくれたお礼は、今度のコンクールの時にね! 素敵な演奏聴かせちゃうよー」
「お礼なんて別にいいのに……。でも、楽しみにしてる」
コンクールまでの三週間、私は無我夢中で練習に打ち込んだ。別に賞を取りたいと思っていたわけではない。ただ、誰かの胸に響くような、そんな演奏がしたかった。
「十番、外之内礼さん。曲は『世界に一つだけの花』です」
スポットライトが照らすステージ。同じような場所で演奏した経験は何度もあったが、一人で立つのは初めてだ。正確には、伴奏をしてくれる顧問の先生がいたから、一人ではなかったが。
深呼吸を一つ。客席をざっと見渡す。
視界の端に、緊張した面持ちのハルちゃんと、両親の姿があった。
どうしてハルちゃんがそんなに緊張するかなー。私の分まで、緊張してくれてるのかな。じゃあ、私は緊張なんてしていられないね。
トランペットを構え、大きく息を吸い込む。その息は優しく、力強く、金属性の管の中を一気に駆け抜けた。
黄金の朝顔からは、空気をふるわす音が咲く。
最後の一音まで、みんなの心に、届くように。
多分私は。この日、今までで一番いい演奏をしたと思う。
だからきっと、この結果にも満足がいくはずなんだ。 そのはずなのに。
表彰式の後、私はホワイエのソファーに体育座りしていた。傍らにはトロフィーと、表彰状。そこに書かれているのは、「準優勝」という三文字。
腕の中に、顔を埋める。きっと今、私はひどい顔をしているに違いない。
控え室の前の誰もいない廊下で。つい先ほどまで、声を押し殺して泣いていた。目元は赤く腫れ上がり、もしかしたら鼻水のあとも残っているかもしれない。
「こんな顔、見せられないよ……」
「――外之内」
控えめにかけられる声におそるおそる目を上げると、きょとんとした表情のハルちゃんがいた。
「準優勝、おめでとう」
「うん……」
明らかに元気のない私の様子に、ハルちゃんは困惑を隠せないようだった。
「……優勝、したかったんだよね」
力なく、私は首を横に振る。
「うにゃ……別に優勝目指して練習してたわけじゃないんだよ。みんなに、ハルちゃんに、素敵な演奏を聴いてほしかったから練習してたの」
「うん」
「今までで一番いい演奏ができたから、満足はしてる。でも、でもね……」
目元のダムは再び決壊し、溜まっていた涙が膝に落ちる。
「優勝した子の演奏、私よりも素敵だった……! 中学に入ってトランペット始めたって言ってて、私よりトランペット歴短いのにね、私より、上手なの……!」
自分で言っていて、全然論理的じゃないなと思った。こんなのただの八つ当たりだ。無い物ねだりだ。私はきっと、褒められてばかりで、自惚れていたんだと思う。そのツケが、今になって回ってきたんだ。
「敵わないなって、思っちゃった……」
笑顔を作ろうとするが、上手くいかない。こんなんじゃ、ハルちゃん、困らせちゃうよ……。
「――礼ちゃん」
「え――?」
今度こそちゃんと顔を上げると、そこには笑顔のハルちゃんがいた。
「でも僕は、礼ちゃんの演奏が一番良かったと思うよ。僕でも知ってる曲だったし」
評価するところはそこですか。でも、やっぱりハルちゃんらしい。涙を拭いながら、自然と笑みがこぼれた。
「優勝した子が吹いてた『トランペット吹きの休日』だって、小学校の運動会でよくかかってたよ?」
「え、そうだっけ」
恥ずかしそうに顔を赤らめて、ハルちゃんは上着のポケットをごそごそと探り、何かを取り出した。
「これ、準優勝のお祝いに」
薄い緑色の、小さな紙袋。右上には、オレンジ色のリボンが『for you』とプリントされたシールで貼られている。
「開けていい?」
「どうぞ」
丁寧に袋を開け、中身を取り出す。
中には可愛らしいピンクの花の飾りのついた、髪留めが入っていた。前髪をパッチンできるあれだ。少し子供っぽいデザインだけど、きっと頑張って選んでくれたんだろうな。
「外之内に似合うかな、と思って」
「ハルちゃん……」
すごく嬉しい。嬉しい、けど……、
「せっかくなら今のセリフ、下の名前で言ってほしかったなー」
「えっ?」
おろおろするハルちゃんを見ていると、さっきまでの悔しさとか諸々が、どこかへ消えていく気がした。悔しい結果だということに代わりはないけど、これからの目標ができたということで、良しとしようかな。
「ありがとう、ハルちゃん」
「どういたしまして」
四月。楽しそうに、桜の花びらが風と踊る。
私は新緑のような制服に身を包んで。
前髪の横を、ピンクの花のパッチンで留めて。
柔らかな日差しの元へ、元気に駆け出す。
幼馴染みの背中を追って。