オレンジアワーグラス

「orange summer catch」



 小学校の時のあだ名は「マッシュ」だった。
 本名とは一切関係ない。髪型がマッシュルームみたいにもさっとしていた。それだけの理由だ。実にくだらない。
 そんないじめ半分からかい半分のあだ名を冠されても、当時の俺は何とも思っていなかった。何とも思わないようにしていた。
 こんな些細なことで悩めるほど、俺は暇ではなかったのだ。
 俺の両親はいわゆるスパルタというやつで、物心ついた頃にはいくつも習い事をさせられていた。学習塾はもちろん、英会話、そろばん、ピアノ、習字等々。挙げ始めればキリがない。だから俺には、放課後に遊べるような時間も、友人もいなかった。

 そんな俺に話しかけてくるやつと言えば、
「おいマッシュ、宿題教えてくれよー」
「そんな簡単な問題もわからないのか。教科書の例題の数字を少し変えただけだろ。教えられることなんて何もない」
「なんだよ、せっかく話しかけてやったのに」
「そんなことを頼んだ覚えはない。勉強のじゃまだ。これ以上用がないなら話しかけないで」
……と、まあ、こんな感じで。クラスメイトにとって俺は「頭は良いけど友達いないかわいそうな、でもいけすかないマッシュ」で、俺にとってクラスメイトは「話す価値もないそもそも顔も名前も覚えていない誰か」でしかなかった。散々な扱いである。お互いに。
 両親に命じられた通り大量の課題をこなすことは、別に苦ではなかった。そうすれば、クラスメイトと関わる時間を必要最小限にできたから。学校の勉強は退屈だったし、友人関係なんてもっと価値のないものだった。
 とある先輩に会うまでは。

「ねえ君、いつも一人で帰ってるみたいだけど、寂しくないの?」
 小学5年生の夏。放課後。
 いつものように、帰りの会から解放されると同時に昇降口へと向かう俺を、誰かが呼び止めた。
 階段の途中。頭上から投げかけられた声。それは、からかいとは違う色を含んでいた。無視できなくて振り向いてみると、
「俺、転校してきたばかりで友達いないんだ。よかったら一緒に遊ばない?」
見ず知らずの男子にそう言われた。
 声変わりが始まったばかりの、すこし掠れた低めの声。男子にしては長めの黒髪。女子よりも高い身長。少なくともクラスメイトではない……はずだ。だって教室を出たのは俺が一番乗りだったから。同じ学年の誰かか? 同学年に転校生なんていたっけ? だとすると、別の学年の誰かか……。
 わけが分からず思考を巡らせていると、
「ぷっ……くっ……、あははははは!」
彼は突然大声で笑い始めた。しかもお腹まで抱えて。俺はそんなにおかしな顔をしていただろうか?
「おもしろいな、君」
 彼はそう言って階段を駆け下りると、
「俺は6年の○○。来いよ、俺は君が気に入った」
強引に俺の手を取ると、そのまま昇降口へ引っ張っていった。

 後に俺にとっての恩人になるその先輩の名前は、何故か覚えていない。「先輩」とばかり呼んでいたせいだろうか。それにしても、恩人の名前を覚えていないとは、自分の記憶力が残念でならない。

 話を戻そう。彼――先輩に無理矢理昇降口に連れて行かれた俺は、
「あ、あの! おれはこれから塾があるので遊ぶ時間なんてありません!」
どうにかそれだけ言った。塾を理由にすればみんな諦めてくれるし、本当にその日は塾があったから嘘はついていない。しかし先輩はにっこりと微笑むと、
「塾なんてサボればいいだろ」
俺の両親が聞いたら卒倒しそうな台詞を吐いた。あまりにも当然のことのように言ってのけたので、俺は目を丸くした。宇宙人か何かを見ている気分だった。
「そんなことよりキャッチボールしようよ。早くしないと校庭取られちゃうぞ」
俺の危惧を「そんなこと」とばっさり切り捨てた先輩は、俺の返事も聞かないで校庭へと走っていった。
「なんて自分勝手な人なんだ……」
 だけど、やっぱり無視できなかった。放っておいて、そのまま塾へ向かうという選択肢もあったはずなのに。
 その日俺は、生まれて初めて塾をサボった。
「ちゃんと来たじゃないか」
 体育器具庫の横。グローブを手に、得意げに視線を向ける先輩は。何だかとても、ほっとしているように見えた。

「やったことないのか、キャッチボール!」
「……すみません」
「いや別に謝るようなことじゃないけど。本当に友達いないんだな」
「先輩に言われたくありません」
「俺は前の学校では友達いっぱいいたんだぞ」
「でも今はいないじゃないですか」
「いや、今できた。君は友達になってくれるんだろ?」
「なっ」
「ほらほら、さっさとグローブはめて。最初は近くでやってやるから、思い切って投げて見ろ」
 言われるがままに左手にグローブをはめ(指摘されるまで右手にはめていた)、右手にボールを持つ。持てる限りの力を振り絞って投げたボールは、
「…………あまりにも予想通りすぎて笑うしかないな」
「すみません……」
見事に明後日の方向に飛んでいって、器具庫の屋根の上に落ちた。
「まあ、思ったより腕力はあったみたいだけど。取ってくるから、そこで待ってて」
「……すみません」
「……それ。謝るの禁止な。君はなにも悪くない」
「でも……」
「もう一回謝ったら友達やめる」
「うっ……」
 それまでは友達なんて必要ないと思っていたはずなのに。そう言われると、友達でいてほしいという気持ちがこみ上げてきた。
 そんな不思議な気分を感じながら、身軽に屋根によじ登る先輩を見上げようとしていたときだった。
「あれ、マッシュじゃん」
 どこかで聞いたような声がした。これは先輩とは違う。何かよからぬことを企んでいる、意地の悪い声だ。答える価値もない声だ。
「こんなところでなにしてんの? お前、塾行くって言って、いつもおれたちが誘ってやってるの断ってたじゃん」
 多分、いつも上から目線で勉強のじゃまをしてくる誰かのうちの一人だろう。面倒なことになった。俺が振り向きもせずに黙っていると、
「おい、なんとか言えよマッシュ! ……まあ、おれはやさしいから、今から仲良くしてやってもいいんだぜ?」
肩をつかまれ、くだらない台詞が投げかけられた。
 ……本当に、くだらない。
 だから俺は、誰とも関わらないようにしていたのに。学校なんて面倒な場所からは、早く離れようと思っていたのに。
 どうして今日は、こうなってしまったのだろう。
「へぇ、君、マッシュって名前だったのか」
 頭上からかかるのんびりした声。見上げるとそこには、
「ねえ君たち。悪いけど放っておいてくれないか? マッシュ君は今、俺と遊んでいるんだよ」
屋根の上に仁王立ちする先輩がいた。あんなに高いところで立ち上がるなんて、どんな度胸をしているんだこの先輩は。
「だれだよお前」
「俺は6年の…………よく考えなくても、君たちに名乗るのは面倒だな」
「なんだと?」
「相手するのも嫌になってきたから、そろそろ手を引いてくれないか。……さもないと、君たち全員叩きのめすことになるよ?」
 先輩が鋭い眼差しで笑ってみせると、
「……ちっ」
背後の誰かは舌打ちをしてどこかへ行った。結局誰だったのだろうか。興味なんてまるでないが。
「よっ……と」
 屋根から下りてきた先輩は何事もなかったかのように、俺にボールを手渡した。
「さて、再開しようか。さっきは油断してたけど、今度はちゃんとキャッチしてやるから」
「あの、先輩……」
「ん?」
「その…………ありがとう、ございます」
 言いなれない言葉を、おそるおそる口に出してみた。すると先輩は、いきなりその場にうずくまった。どうしたのかと思っておろおろしていると、くぐもった声がした。
「よかったー。謝られたらどうしようかと思った」
顔を膝にうずめて、先輩はそんなことを言った。
「どうして、そんなにほっとしているんですか」
「君が謝ったら友達やめないといけないから」
自分で友達やめる宣言をしていたのに、どうしてそんなことを言うのだろう。わけがわからなかった。

 夕暮れ。オレンジ色の夕日が校庭を包み込むまで。
 時間が経つもの忘れて、俺は先輩とキャッチボールをした。先輩は宣言通り、どんなボールでもキャッチしてくれた。俺は少しだけ、上手にボールを投げられるようになった気がした。

「ところでマッシュ君」
「その……、マッシュっていうのやめてもらませんか」
 帰り道。ランドセルを背負って通学路を学校とは反対方面に歩いていく。
「おれの名前は、橋本渉です」
「なんだ、さっきのはあだ名だったのか」
「そうです」
「それにしてもどうしてマッシュなんだ? 本名にかすってもいないじゃないか」
「……おれの、髪型が…………」
「ああ、なるほど。マッシュルームみたいだからか。単純な理由だな」
「そんなにマッシュルームみたいに見えますか」
「うん、見えるな」
 またもや、ばっさりと切り捨てる先輩。しかしクラスメイトに言われた時のような、うんざりするような気持ちは感じなかった。おそらく先輩は、何も考えずに俺の質問に答えただけだ。その言葉の裏に、悪意はない……はずだ。
「それにしても、マッシュ、ねえ……。英語でもしゃべれそうなあだ名じゃないか」
「英語は、少しなら話せます」
「えっ、冗談で言ったのにすごいな君は! 今度俺に勉強教えてよ」
「先輩の方が年上でしょう! 6年生の範囲は、もう塾でやっているので大体わかりますけど……」
「それは助かる! じゃあ、明日の放課後は俺の宿題に付き合ってくれ」
「明日も塾です」
「サボってしまえ」
「さすがに二日連続でサボれません!」
「じゃあ、連続じゃなければいいんだな。明後日はどうだ?」
 この先輩は、自分のことしか考えていない。人が長年かけて築き上げた壁をいとも簡単に飛び越えて、先輩は俺に話しかける。友達といるのが楽しいなんて、今まで考えないようにしてきのに。
「……父さんと母さんに、なんて言いわけしよう」
 方向も定まらず投げた言葉を、
「言い訳? そんなの正直に言えばいいだろう。勉強よりも楽しいことが見つかった、って」
先輩はやっぱり、上手にキャッチしてみせた。

   *

 小学校を卒業した先輩は、地元の中学校へ進学した。一方の俺はその一年後、別の中学に入った。
 私立明葉学園中等部。この辺りでは、それなりに有名な学校だった。そこで無難に3年間を過ごし、俺はそのまま、高等部に進んだ。
 先輩は今、どこで何をしているのだろうか。もし再会できたなら、今度は俺が、キャッチボールに誘ってみようか。

   *

「あ、橋本先輩。こんにちは」
「はっしー先輩! 先輩って昔何て呼ばれてたんですかっ?」
「はあ?」
 私立明葉学園高等部、カフェ部にて。カフェスペースに足を踏み入れた途端に、後輩たちの元気な声。
 後輩の一人、榎戸悠はいたって普通の挨拶を。もう一人の後輩である外之内礼は放課後にして尚衰えぬ元気の良さで、俺に質問してきた。
「話が見えないんだが」
「さっきみんなで話してたんですよー。昔のあだ名は何だってのかなーって。ちなみに私は礼ちゃん、ハルちゃんはハルちゃんです!」
「今と変わらないじゃないか」
「でもハルちゃんは私のこと、外之内って呼ぶんですよー。昔みたいに名前でいいって言ってるのに」
「だから、何度も言ってるだろ! 高校生になってまで名前で呼ぶのは恥ずかしいって! あとそのハルちゃんっていうのやめて」
「えー、かわいいのにー」
「その可愛いのが嫌なのに……」
 俺に尋ねておきながら、俺を抜きにして話を進める後輩たち。さて、どうやって会話に参加しようか。しかし昔のあだ名か……。正直、あまり思い出したくはないが。
「橋本君はね、昔はマッシュ君だったんだよ」
「――!」
 どうしてそれを知っているのか。テーブル席に目を向けると、部長がいつものように、紅茶を片手に楽しそうな表情をしていた。
「マッシュ?」
「髪型がマッシュルームカットだったからだよ」
「どうして部長がそれを知っているんですかっ!」
「さて、どうしてでしょう?」
 そんな適当な言葉であしらわれてたまるものか。部長にだけは知られたくなかったのに。知られたら、絶対にからかわれる。
「でも俺は、今のあだ名の方が好きだよ、はっしー君」
「その呼び方もやめてください!」
 きっと部長のよく分からないがすごい人脈を駆使して調べあげていたに違いない。この人は仕事はしないのに、どうでもいいところで能力を発揮する。
「そんなことより部長、掲示板は確認したんですか?」
「俺がするわけないだろう」
「だからいい加減仕事してくださいっていつも言ってるでしょう! あなたはそれでも部長ですか!」
「君はいつもそればっかり言うね」
「全く、俺たちがいなかったらどうするつもりなんですか」
「それは大変だ。掲示板から紙を回収する人がいなくなってしまう」
「どこまであなたは怠惰なんですか」
「いいんだよ、これで」
 いつものようにおどけて言うかと思ったが。その表情は、寂しそうな、安堵したような、何とも複雑な色をしていた。

 あのときの、膝を抱えていたあのときの先輩も。こんな表情を、していたのだろうか。